【北のミュージアム散歩】第92回 勝山館跡ガイダンス施設 ~和人社会の最後の牙城~

連載 北のミュージアム散歩

「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
第92回は、上ノ国町の「勝山館跡ガイダンス施設」です。ぜひご愛読ください。

(合田一道)

■第91回 勝山館跡ガイダンス施設
-和人社会の最後の牙城-

ガイダンス施設の外観(著者撮影)

 平安時代末期から鎌倉時代、奥州平泉の滅亡による残党の逃亡から流刑地として、北海道に和人の移住が始まる。室町・戦国時代、落ち武者らが津軽海峡を渡り、渡島半島南端に道南十二館を造った。その一つが、上ノ国町にある蠣崎季繁(かきざきすえしげ)が館主の花沢館である。コシャマインの蜂起が収まる1470年頃、その館に身を寄せ婿養子となった武田信広が、上ノ国南側の夷王山に勝山館を築いた。北海道で初めての本格的な城で、和人社会の象徴的な建造物となる。

 函館市から、車で国道227号線を経て江差町に着き、日本海側沿いに南に向かうと、人口4,000人の閑静な漁業町の上ノ国町(檜山振興局)に至る。そして、夷王山の頂上に通じる道に入り、国指定史跡の勝山館跡に着くと、平成17年(2005)、上ノ国教育委員会により作られた「勝山館跡ガイダンス施設」が見えてきた。

 施設内に、信広の経歴と松前藩の成り立ちを説明するパネルが並ぶ。鎌倉幕府が「東夷成敗権」を得て、北方社会との交易権を把握することから始まる。津軽十三湊(青森県)を拠点とする安東氏が、執権北条氏の代官として「蝦夷管領」に任命されたが、永享4年(1432)、陸奥国の南部氏との戦いに敗れ、北海道に逃亡した。安東氏に合わせ、南部氏から独立を目指していた蠣崎蔵人(くろうど)が、下北半島大畑から北海道に渡海する。信広の出自について、若狭(福井県)出身の武装商人や下北の土豪の一族の他に、この蠣崎蔵人が信広とも伝えられるが、よく分らないらしい。安東氏が、逃亡後に支配したとされる十二館も、実際は群雄割拠の状態で成立の過程も不明な点が多い。長禄元年(1457)、アイヌ少年が、マキリ(小刀)の出来や値段のことで言い争い、和人に殺された。族長のコシャマインによりアイヌ民族が一斉蜂起し、ほとんどの館を焼かれた和人は、上ノ国に追い詰められる。信広は、生き残った武士をかき集め、箱館の七重浜でコシャマイン親子を弓で討ち、和人社会の頂点に立った。信広の息子となる光広が松前に居を移し勝山館の役割はなくなるが、力をつけた五代目の慶広の働きで豊臣秀吉の従臣となり、安東氏の支配から独立する。そして、慶長4年(1599)、「蝦夷ヶ島の王」として徳川家康から北海道の支配権が認められ松前藩が成立した。

 施設中央に、夷王山と勝山館の精巧なジオラマが見える。敵は前方の入口となる大手門から攻めるとし手前に設置した物見と堀底道で防御を考えた。館主は後方の奥の高台でなく交易のため入口側に居住する。城内の中央をメイン道路が縦貫し、その左右に100平方メートルの地割を作り、そこに武器や生活必要品を作る工房、倉庫を置いた。城内で多くのことが完結でき、長期の籠城に備えた構造といえる。

勝山館のジオラマ(著者撮影)

 大陸とも交易し商業が盛んだった証拠に、10万点ほどの遺物の中から大量の高価な漆器や陶磁器、中国銅雀台瓦碩(どうじゃくだいがけん)などが見つかった。本州と同じ生活習慣で、大工や鍛冶職の専門職人ばかりでなく僧侶や修行者も住み、城というより中世の都市に近い。

 施設を出て跡地を散策した。長さ270メートル・幅100メートルで総面積20.9万平方メートルの、今までと別格の最後の砦に相応しい姿が、かなり復元されている。夷王山の北斜面にあることから、上ノ国に加え、遠くの江差や乙部も監視できた。

メイン道路と両脇の地割(左)|空壕の橋と柵(右)(全て著者撮影)

上ノ国町から見た夷王山(著者撮影)

 近年の調査で、勝山館の後方に、40基余りの墳墓が発掘され、アイヌの葬法の墓が二基確認された。この墓は、葬送儀礼を行う人物により作られ、たまたま勝山館にやってきたアイヌが不慮の死をとげ埋葬されたとは考えにくい。その後、勝山館ばかりでなく上ノ国にも、アイヌが同居、共同生活をしていたという事実も分かってきた。

出土した500点余りの骨角器。館の中で製作使用した(施設のパネルから:著者撮影)

 上ノ国以外の道南十二館は、本州が望める津軽海峡に接した場所にあり、故地奪還が目的で造られ、アイヌは単に搾取の対象である。だが、蠣崎氏だけは、本格的に北海道に骨を埋めようと日本海沿い奥に拠点を置き、共存と撫育が必要不可欠と考えていた。長年に渡りアイヌ民族と対立した松前藩だが、この施設に行くと見方が変わるかもしれない。

利用案内
住所:〒049-0601 檜山郡上ノ国町勝山427番地
電話:0139-55-2400
営業時間:午前10時~午後4時
開館時期:11月中旬~3月の冬季は休館
入館料:大人200円(高校生まで100円)

付近の見どころ:湯ノ岱(たい)温泉
源泉かけ流し方式の日帰り入浴施設「湯ノ岱温泉 国民温泉保養センター」がある。江戸時代に開湯し、松浦武四郎の「蝦夷日記」にも記され、特に浴室床の温泉析出物による波型模様は有名。

文・写真:河原崎 暢

関連記事

SUPPORTER

SUPPORTER