龍馬伝で火がついている坂本龍馬だが、ずっと以前から龍馬を愛する道産子たちが集まって作った「北海道龍馬会」が活動を続けている。龍馬の生き方はまさに北海道にぴったりという訳だが、6月5日に行われた今年の定期総会では龍馬と巡り会いがあったかもしれないジョン万次郎の末裔が記念講演を行った。
講演したのは万次郎から数えて5代目に当たる中濱京さんという女性。以下、講演の要旨。
《万次郎が土佐から出発した漁船で遭難して鳥島に漂着、偶然通りかかった米国の捕鯨船、ジョンハウランド号に助けられてから、万次郎の波乱の人生が始まった。ジョンハウランド号は、鳥島で食料となる海亀の卵を探しに来たものの、急峻な崖に阻まれて諦めて引き返すときに、万次郎たちを見つけたという。当時、万次郎14歳》
《ホノルル港で、ホイットフィールド船長は万次郎を含めた生存者を下ろしたが、万次郎の機敏な行動を見ていた船長が、米国本土で勉強させたいという思いを強くして、万次郎だけが再びジョンハウランド号に乗って、船長の生家があるマサチューセッツ州フェアヘーブンに》
《ここで、万次郎はオックスフォードスクールに通い日本人初の留学生になった。
万次郎は勉強を終えた後、21歳でフランクリン号の副船長になり捕鯨の航海に出る。2年後に帰港し、今度はゴールドラッシュで沸く西部の金山で一儲けする。ピストル2丁を携えて70日間働き600ドルを稼いだ。当時船乗りの月給が17ドルだったことを考えればかなりの高給を得た》
《万次郎24歳の1851年、鎖国中の日本に帰国。捕鯨船で琉球近くを通過する際に小型船を使い琉球の摩文から上陸。「母に会いたい、日本人だから死罪になっても戻りたい」と思いを募らせた結果の帰国だった》
《その後、長崎などで約2年間の取調べを受け、土佐にもどってからは藩主・山内容堂に米国事情について報告。「漂巽紀略」「漂客談奇」という本を残した。「日米対話捷径」という日英辞典も著した》
《その後、幕府直参になり咸臨丸で福沢諭吉と共に米国に渡り、帰国時にはウェブスター辞典やミシンなどを持ち帰った》
《万次郎が学んだのは隣人愛。ホイットニーフィールド船長の影響が大きかった。直参として江戸に居を構え、外食すると残したものは必ず持ち帰り、途中、橋の下で乞食にその残り物を与えた。親しく話す姿に当時の町民はびっくりしていたという》
1898年、万次郎は71歳でなくなる。万次郎の遺志を継いだ財団法が現在も活動しており、ホイットニー家との付き合いも続いているという。
龍馬の生き方や万次郎の生き方には、共鳴・共感する人が多いだろう。頭の良さだけではない、心の強さこそ源泉なのだろう。