総合スーパー、ニチイの北海道進出の立役者だった北海道ショッピングセンタービル代表取締役で小樽ベイシティ開発社長も務めた故・中村憲正(かずまさ)氏の「お別れ会」が16日、札幌市中央区の札幌グランドホテルで開かれた。親交のあった野田聖子・元郵政相・元自民党総務会長も訪れ、別れを惜しんだ。IMG_4610(写真は、中村憲正氏のお別れ会で献花する会葬者)
IMG_4601(親交のあった野田聖子代議士も参列。中村氏との写真を懐かしむ=写真)

 中村氏は、1937年9月生まれ。ガンを患い自宅療養していたが、4月18日に死去、78歳だった。実家は道内で最大の理美容院、中村理美容院を経営、憲正氏は次男として生を受けた。長男はテレビの水戸黄門で有名な風車の弥七を演じた中谷一郎氏。
 
 札幌北高卒業後、中村理美容院が9階建ての中村ビルを建設したのを機に中村ビルに入社。その後、古平町出身の自民党代議士、寿原正一氏と出会って秘書になる。寿原氏の69年選挙、72年選挙を手伝い、同年齢の秘書仲間だった平野明彦氏(故人・道議を7期28年務めた)、安斎允氏(後につばめタクシー代表取締役)とは秘書時代もその後も「最強の3兄弟」と呼ばれた。
 
 寿原代議士の死去で中村氏は第2の人生をスタート。ニチイの小林敏峯氏が関わったある事件を中村氏が助けたのが縁とも言われるが、本格的に関係が深まったのは、ニチイの東北店舗開発を進めていた日本食品センターが北海道の店舗開発も進めることになってニチイと関係のあった札幌の設計事務所が中村氏を紹介したのがきっかけ。
 
 70年代の大型店出店は、商店街が反対の姿勢を鮮明にして一筋縄ではいかない時代だった。そんな中で、79年7月、ニチイの北海道1号店となる「藻岩店」がオープンする。中村氏は夜討ち朝駆けで反対する商店主らを訪ねて説得、出店に道筋をつけた。このことで、ニチイの経営幹部と中村氏の信頼関係は絶対のものになる。ニチイグループだったホクホーの出店も手掛け、80年紋別店の出店を実現させている。
  
 80年8月にニチイの小林社長が名付け親になって「北海道ショッピングセンター」を設立、81年7月旭川店、同年11月手稲店、82年12月釧路店のオープンを導いた。釧路店の出店でニチイは道内100億円の年商規模に達した。
 その後も、89年の大谷地店、91年の東苗穂店、99年のウイングベイ小樽と続くが、そのころになるとニチイはマイカルに社名変更、業績にも陰りが見え始める。マイカルの小林氏は99年に死去しその後、マイカルは迷走。2001年にイオンが再建スポンサーになりマイカルは事実上消滅した。
 
 小林氏の意向で中村氏が建物オーナーになった手稲店、東苗穂店はすでに閉店、東苗穂店は所有者も変わり現在解体中でホームセンターに生まれ変わる。旧手稲店とウイングベイ小樽を所有する小樽ベイシティ開発も再生に向けて協議が進む。
 中村氏の半生は、道内大型店の歴史そのものだった。関西弁交じりの言葉で話すのが印象的だったが、大阪発祥のニチイとの親交がもたらした癖だったのかもしれない。


17人の方がこの記事に「いいんでない!」と言っています。