北海道から第2のニトリ、アインのような企業を輩出させようと、官民連携で若手経営者の育成に取り組んでいる北海道経営未来塾(塾長・長内順一未来経営研究所社長)第10期の第2回定例講座が2025年7月16日、札幌市中央区の札幌パークホテル1階テラスルームで開催された。エスコン(東京本社・東京都港区、大阪本社・大阪市中央区)の伊藤貴俊社長が、『“いかなる経済環境にも耐えうる経営基盤を確立し、持続的な成長を実現する”経営を目指して』をテーマに30数人の塾生に向かって約70分間講演した。(写真は、講演するエスコン・伊藤貴俊社長)
伊藤氏は、1971年9月生まれの53歳。経営未来塾の講師は、70歳以降のレジェンド経営者が多いが、伊藤社長は、塾生に近い年齢の若手経営者。サラリーマンからトップに上り詰めた生え抜きの社長だが、波乱万丈の社会人人生を経て血肉となった指針は、『疾風に勁草を知る』『道義・正義を貫く』『先議後利』『出会いが人生を変える』「大木よりも銘木を目指す』といった、時を経ても錆付かない経営に関する普遍の真理というものだった。
小学校低学年から野球を始め、大学は、野球推薦で大谷大学へ進学。大学時代も野球に熱中したが、卒業後は、不動産業界に足を踏み入れた。「中学生の頃に、父親が経営していた繊維問屋が倒産して、一家は6畳2間のアパートに引っ越した。大きくなったら両親を楽にさせてやりたいと当時からハングリー精神があった」と伊藤氏は振り返る。就職したのは1994年、バブル崩壊で就職氷河期だった。将来、独立できる仕事で、大きく稼げる仕事ということで不動産業を選んだ。
その後、デベロッパーの仕事に興味が移り、23歳で転職。分譲マンションの飛び込み営業などを行っていたが、在籍していた7年間は、営業成績が常にトップだった。「勉強させてもらった20代」(伊藤氏)というように、会社をよりよくしようとさまざまな進言を行ったものの、取り入れられることはなかったという。自身が思い描く仕事ができないと考え、退社を決意、部下数人と独立することにした。ちょうどその頃、日本エスコン(現エスコン)に転職していた先輩から「来ないか」と打診された。日本エスコンは、不動産業界のベンチャービジネスといった存在で、商品力、企画力、開発力に優れていたため、伊藤氏は、この会社で3年間働いてから独立することに切り替えた。
2001年9月、30歳で日本エスコンに転職、「年収は1000万円から450万円に半減以下になったが、嫁は文句ひとつ言わなかった」と伊藤氏。入社早々、家ではすることがないため日曜日に出社していたところ、電話が鳴って伊藤氏が取ると、芦屋の土地を売りたいという依頼だった。その足で現地に向かうと、「電話の主は、あなたに任す」と売却を依頼。その額10億円、華々しいエスコンデビューだった。しかし、数ヵ月後、その売却話は破談に。伊藤氏はクビを覚悟したが、先方は、違約金として1億円を払うと。当時現金が欲しかった会社は、破談になっても労せずして入る1億円に飛びついた。伊藤氏は、クビどころか昇格、年収は倍になった。天性のラッキーボーイの本性が垣間見えた瞬間だった。
2006年に執行役員になり、翌年には、36歳で社長に次いでナンバー2の常務・事業本部長に就任。「それまでかわいがってくれていた先輩たちが、180度変わって、伊藤憎しでいじめられた」と打ち明ける。当時は、Jリート(日本版不動産投資信託)が創設されるなど、不動産業界は活況を呈していた。しかし、2008年、リーマンショックが襲う。当時の不動産ベンチャーの多くが倒産していく中で、日本エスコンも風前の灯火だった。2期連続の赤字、2年間で現預金が200億円から20億円に減少、時価総額も12億円足らずになった。財務責任者の辞任や経理担当者者の休職で、期せずして財務を見ることになった伊藤氏。バランスシートも読めない経理の素人が、会社の命運を握ることになった。(次回に続く)