1976年発売の「白い恋人」を北海道を代表する銘菓に育て上げた、石屋製菓(本社・札幌市西区)の石水勲名誉会長(77)が、26日死去した。同社は後日、お別れの会を行う予定。(写真は、石水勲氏=石屋製菓提供)
石水勲氏は、実父が南満州鉄道の経理担当だったため、1944年5月、中国大連市で生まれた。戦後、中国から両親と帰国、札幌で育った。札幌工業高校卒業、東洋大学経済学部を卒業後、祖父と実父が創業した政府委託でんぷん工場が祖業の石屋製菓に1967年に入社。札幌工業高時代は野球部、東洋大時代はボクシング部に所属、スキーのライセンスも持つスポーツマンだった。石屋製菓入社後は、仕事の後に菓子職業訓練校に入り、菓子作りを学んだ。
1972年に専務取締役、1980年5月に社長就任。2007年7月に発覚した不適切な賞味期限表示の責任を取って辞任、2009年7月に顧問として復職、同年9月取締役に復帰して相談役、11年7月代表権のある会長に就き、21年7月名誉会長に退いた。
勲氏は、1968年に駄菓子製造から高級洋菓子路線に切り替え、ジャンボ栗饅頭「勝栗」を販売、1971年には札幌地下鉄南北線開業を記念して「シェルター」を販売した。1976年には「白い恋人」の販売を開始、機内食として採用されたことで人気が沸騰した。勲氏はかつて、「実父が初冬に雪が降ってくるのを見て、『白い恋人たちが降ってきた』という言葉を聞いてピンときた。名付け親は父」と語っていたこともある。
1995年には、「イシヤチョコレートファクトリー」を開館、米国ペンシルバニア州にある「パーシーパーク」を参考に、2003年に増設して「白い恋人パーク」と改称、西区の代表的な観光スポットに育てた。また、1996年のコンサドーレ札幌(現北海道コンサドーレ札幌)創設にも主導的に関わり、北海道にスポーツを楽しむ文化を幅広く根付かせた。筆者は何度となく勲氏に取材をしたが、子どもような心を持ち続け、決して偉ぶらない好漢経営者という印象は終始変わらなかった。
勲氏の長男で社長を務める石水創氏は、勲氏の逝去に関して次のようなステートメントを発表した。
「父である石水勲名誉会長は、ISHIYAのことだけでなく、北海道全体を盛り上げたいということをいつも考えている方でした。『北海道が良くなるためには』、『北海道が元気になるためには』どうしたらいいのか、『北海道観光全体、食と観光がどうやったら盛り上がるのか』、『どうやったらお客さまや道民の方々に喜んでいただけるのか』を経営の原点にしていました」
「私が幼い頃から、自宅でもよく仕事の話を熱心に語ってくれました。新作のお菓子の試作品を食べさせてくれたり、構想段階の白い恋人パークの設計図を見せてくれたりと、いつも人の喜ぶことや、幸せになることを第一に想っていたことが印象的です」
「会長が残してくれたものはとても大きく、その想いを胸にこれからもお客さまの幸せにつながるような仕事を、社員の皆さんと一緒にやっていければと考えております」
※2021年9月29日記事一部削除、追加しました。