貸会議室で年商100億円、リアルなオールドビジネスをネットで新興ビジネスに変えた「TKP」河野貴輝社長の軌跡②

経済総合

 貸会議室ビジネスで年商100億円と急成長を遂げるティーケーピー(TKP)。前回に引き続き2回目の今回は、順調に成長路線を進んでいたTKPを襲ったリーマンショックをどう切り抜け、再び成長軌道を取り戻した経過に焦点を当てる。SATOグループのセミナーでTKPの河野貴輝社長が語った内容を再構成した。(写真は、SATOグループセミナーで講演する河野貴輝社長)
 
 設立後も順調に業績を伸ばしてきたTKPを最初に襲った苦難は、リーマンショックだった。オフィスビルの空室を利用した貸会議室というビジネスモデルの成功によって、TKPは出店攻勢をかけ、家賃が高くなっているにもかかわらず貸会議室を増やしていった。そけだけ、企業の研修や会議のニーズが強かったためだ。しかし、2008年秋に起きたリーマンショックは、顧客である企業の経営を直撃。結果、TKPに大量のキャンセルという事態を引き起こしたのだった。
 
「大手家電メーカーから総額で5億円の受注キャンセルが来た。4月、5月の新入社員研修に使う会議室使用がすべてキャンセルというもので、当時の当社の売上高が20億円だったので5億円のキャンセルは大打撃だった。なにせ1ヵ月に1億円の赤字が出たのだから。そのころ、当社はベンチャーキャピタルからも多くの資金調達をしていたので『河野さん、いったいどうなっているんですか』と責められ、お先真っ暗という状況だった」と河野氏は振り返る。
 
  リーマンンショックの余波というのには、あまりに大きすぎる余波だった。そのころのTKPは、株式公開を視野に入れ社内体制を上場企業に相応しい体質にするため、権限委譲を積極的に行っていた。しかし、大量の大口キャンセルはTKPの屋台骨を揺るがす事態になり、河野氏は社長兼営業部長、社長兼仕入れ部長というように一人何役もこなす体制を急遽取り入れる。その中で見えてきたのが、裏づけのない計画による無謀な出店だった。「やはり中小企業である限り、社長が見ることのできる範囲は社長自身で見ていかなければいけない。権限委譲の盲点があることに気づいた」と河野氏は反省点を挙げる。
 
 河野氏は社内に向けて「リストラはしない、人件費は削らない」と宣言。解決の糸口として取り組んだのは原価の低減だった。貸会議室の賃料を下げてもらう交渉だ。オフィスビルの賃料が下がっている状況の中で、TKPが利用しているスペースの賃料もビルオーナーとの交渉で下げられるはず――河野氏はトップ交渉で軒並み賃料交渉に取り組む。「その結果、40%の賃料値下げができた。それまで年間2億円の賃料を各ビルオーナーに払っていたが、総額で40%下がったので実質8000万円の固定費削減になった」と河野氏。
 
 これだけで終わらなかったことが、リーマンショックから抜け出す鍵になった。「時間貸しの料金を3割下げたところ、利用客が2倍に増えた。これによって当社は1・5倍の収益増になった」。賃料を下げてもらった恩恵を、利用客に還元する値下げ戦略が見事に当たったという訳だ。
 
 リーマンショックを切り抜けて再び成長路線に乗ることができたTKPは、次なる挑戦としてホテルのスペースを仕入れることに踏み出す。全国のホテルは大半が宴会場を抱えているため赤字体質から抜け出せない。河野氏は言う。「赤字ならチャンスがある。ホテルの再生を兼ねて結婚式に使う宴会場を企業の貸会議室に利用する。設立初期のころに取り組んだ結婚式場を平日に貸会議室にする発想を、シティホテルなどにも広げていくことを決めた」
 
 TKPは、ホテルの宴会場をミニチュアコンベンションセンターに変えていったのだ。コンベンションといえば、幕張メッセなど都心から離れた立地で行われるケースが多かったが、ホテルの宴会場でも数千人規模の展示会はできる。都心の利便性の良いところで展示会を開きたいというニーズは強かった。ホテルの宴会場をミニチュアコンベンションセンターに利用することでそうしたニーズを取り込む作戦だ。「宴会場は過去の遺物といえるようなもの。それを貸会議室やコンベンションとして利用することがうまくいった」と河野社長。ガーデンシティと名づけた貸ホールは、品川駅前の旧ホテルパシフィック東京や横浜、名古屋、京都、仙台、札幌などで展開している。
 
 オフィスビルの空きスペースを利用した貸会議室からホテルの宴会場を使ったコンベンションまで、不稼動スペースや不定期利用のスペースを利用したいわばロケーションのシェアリング事業はTKPのリーマンショック後の痛手を次第に和らげて行った。
(以下、次回に続く)

関連記事

SUPPORTER

SUPPORTER