北海道から第2のニトリホールディングスやアインホールディングスになるような企業を育てようと元ニトリ特別顧問の長内順一氏が提唱して今年から始まった「北海道経営未来塾」の第5回講演会が7日、札幌市中央区の札幌パークホテルで開催された。講師は、吉野家ホールディングス会長の安部修仁氏。未来塾生20人のほか一般も含めて約200人が耳を傾けた。P1090185(写真は、約200人を前に話す安部修仁・吉野家HD会長)

 安部氏は、『吉野家V字回復の軌跡~逆境の経営学とリーダーシップ』をテーマに約1時間30分、予定時間を10分以上オーバーするほどの熱弁を振るった。吉野家の創業は1899年、東京日本橋の魚市場の個人商店として始まった。1926年に魚市場が築地に移転したことに伴い築地に移り、市場内で働く味にうるさい人たちを相手に忙しい仕事の合間に素早く食べられる牛丼を提供、美味しさと早さを磨き上げてきた。
 
 吉野家発展の基礎を作ったのは、中大法科を出て従軍、復員してきた創業者の子息、松田瑞穂氏。瑞穂氏は株式会社組織にしたうえで、築地市場の1店舗で年商1億円を目標に掲げた。朝5時から昼1時前の7時間半の営業時間で20席しかない場所で年商1億円は至難。当時、1日2~300人だったお客を1000人にしないと達成できない。満席状態のまま8回転させてやっと届く金額だ。松田氏はオーダーを事前に聞き、お客が席に座るとすぐに出す早さを徹底、目標を達成した。
 
 その後、当時チェーンストアを志向する経営者たちが勉強した渥美俊一主宰のペガサスクラブに入り、チェーン化を推進。77年に100店舗、78年には200店舗へと拡大していった。
 
 安部氏は、67年に福岡県立香椎工業高校を卒業しプロのミュージシャンを目指して上京、アルバイトで吉野家に入った。その後、72年松田氏に採用されて吉野家に入社。安部氏も築地の店で『着席15秒出し』のクイックサービスを極めた。

 しかし、吉野家本体は多店舗化によって味が落ち、コストも上昇。80年に倒産する。「会社更生法が適用されたが、最初は破産しかないと思っていた。30歳を過ぎていたが破産してもこの仕事を続ける意義を考え、途中で投げ出さず最後までやり遂げようと思った。嫌でしようがないことも全力でやることで何か掴むものがある。社員やアルバイト従業員たちのモチベーションが上がらない中でどうリーダーシップを発揮すれば良いのかも考えさせられた」と安部氏は話す。
 
 結局、会社更生法が適用されて87年には当初の計画より早く100億円を完済。安部氏は92年、42歳の時に社長に就任し96年に国内500店舗、2000年には東証1部上場を果たした。安部氏は、会社更生法の経験から、「企業は一番良い時に悪い種が蒔かれるもの。失敗の原因は当事者の傲慢さ。一度達観しても、またしても傲慢になるのが人というもの。危機に際して逃げずに真摯に取り組めば必ずブレークスルーになって良いことに繋がる」と訴えた。
 
 2004年のBSEで吉野家が輸入していた米国産牛肉が輸入禁止になり吉野家は、即座に牛丼休止を決定する。「豪州産牛肉を使えばいいのでは…という声も多かった。しかし、そうすれば別のテイストになって吉野家の存在意義がなくなる。大切なことは短期の利益ではなくブランドへの信頼。今、良いことを選択するより3~5年先を考えた判断の方が問題は少ない」と語った。
 
 安部氏は、最後に経営者に必要な資質として「自らの意志でリスクテイクして挑戦することができるかどうかだ。つまり挑戦することに面白さを感じる資質がなければいけない。私の経験から言えば、期待していた若手が期待ほどの成果を出せず、大丈夫かと思っていた若手が頭角を見せたりする場合がある。挑戦する資質は経営者として大切な要素だ」と締めくくった。
 

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