「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
第19回は、小樽市の「日本銀行旧小樽支店 金融資料館」です。ぜひご愛読ください。
(合田一道)
■第19回 日本銀行旧小樽支店 金融資料館 ―北のウォール街の時代を刻む―
金融資料館の外観
札幌市から西へ約40㎞、日本海に臨む港町小樽市。市内中心部に往時の運河を残し、歴史的建造物が点在する、人気の観光地である。
小樽駅を背にして一本東の大きな道路は「小樽日銀通り」と名付けられ、下り坂の中ほどに、「日本銀行旧小樽支店 金融資料館」が建っている。明治45年(1912)に完成した日本銀行小樽支店は、平成14年(2002)にその機能が札幌支店に統合されたが、建物を残してほしいとの地元の要望に応えて、翌平成15年(2003)、日銀の広報施設「金融資料館」という形で再オープンした。以降、金融を中心にした小樽の発展の歴史と日銀の役割を親しみやすく発信している。
この界隈は、明治33年ころから金融機関の出店が始まり、大正11年には19店舗を数え、北のウォール街と呼ばれた。とりわけ、当時の日本屈指の建築家辰野金吾らが設計し、明治後期最新の工法で建てられた日銀小樽支店は、小樽金融街の代表的な建築物とされ、金融資料館となった現在も変わらぬ佇まいを見せている。
石段を上がり、ルネサンス様式の重厚な建物の入口を抜けると、大理石のロビーが広がる。営業場と呼ばれたこの空間は、レンガの壁から鉄骨を組んで屋根を支え、柱のない10.5mに及ぶ天井の高い吹き抜けになっている。館内を回るツアーが、職員をガイドに毎日開催されていて、かつての支店長室に集合し、長年磨き込まれたチーク材のカウンター内側に入ってスタートする。
歴史展示ゾーンでは、まず近代日本の金融の成り立ちについて解説、その流れの中で、いかにして小樽に人、モノが集まったのかがわかる。広大な北海道の開発途上、明治32年に小樽港が国際貿易港に指定された。その後、道内の鉄道の発達に伴い、小樽港は石炭の積み出し港となり、街は商都へと発展する。
明治26年(1893)に開設した日銀小樽派出所は業務を拡大させ、明治39年に支店となった。さらに街の物流は増加し、それにつれ小樽支店の店舗は手狭となったため、明治43年からおよそ3年の歳月をかけ、日銀本店、大阪支店に次ぐ総工費を投入して新築された。
順路表示に沿って進むと、両サイドのガラスケースに、当時の小樽金融街がジオラマで再現され、街並みを抜ける感覚で作られている。道内行のほか、三井、三菱銀行支店などの出店も相次いだ通りの活気が漂うようだ。次に、第二次世界大戦後に発行された紙幣21種の現物が一面に展示される「お札ギャラリー」が現れ、目を引く。
業務展示ゾーンに移ると、驚く数字の紙幣国内発行量が示される。世界最高峰の偽造防止技術が施される日本の紙幣を、拡大鏡などを用いて観察できるコーナーもある。
一階深部にある金庫の内部に入ると、「一億円を持ち上げよう」コーナーが設置され、模擬券とはいえ、原寸大に裁断された札束10kgを抱える醍醐味を実感できる。金庫奥には、1,000億円分相当の束も積まれていた。
災害時の日銀の働きを紹介するパネル展示があった。平成7年(1995)、阪神・淡路大震災発生時の日銀神戸支店二階に、被災した金融機関の臨時窓口が開設された。その後、東日本大震災も発生し、通帳や印鑑を失った人々への緊急対応を知った。
安定した金融システムや物価の維持は、人々の生活の基盤である。金融資料館は、開館後15年近く経つ今も、年間約10万人という入館者数を数え、小樽観光の主要な一つとして定着しているようだ。道外からの個人客が多いそうだが、訪れた数人ごとのグループが、その場で気軽にガイドツアーを申し込む姿も見られた。
金融資料館の内部「お札ギャラリー」(日本銀行札幌支店提供)
利用案内
所 在 地:北海道小樽市色内1-11-16
休 館 日:水曜日(休日は開館)
開館時間:4月~11月 9時30分から17時(入館は16時30分まで)
12月~3月 10時から17時(入館は16時30分まで)
ガイドツアー:1日2回 ① 14時~、② 15時~
職員による30分程度に凝縮されたガイド
時間が合えば、参加をお勧めする(この時間帯以外は、相談に応ず)。
電 話:0134-21-1111
入 館 料:無料
駐 車 場:なし(ただし、バスで来館の団体、車椅子使用の方は予約により利用可)
交通機関:小樽駅より徒歩で約10分
付近のおすすめスポット
小樽運河
運輸手段として大正12年に完成、その使命を終えても、保存を望む住民運動が起こり、議論の末に埋め立てを免れる。幅を縮小し、散策路が整備され、新しい形で昭和61年に復活した。海側沿いには、土産物店等が入る明治、大正期の石造りの倉庫群が立ち並ぶ。
文・写真 望月 洋那