「北のミュージアム散歩」は、道新文化センターのノンフィクション作家を育成する「一道塾」(主宰・合田一道)の塾生が書いた作品を連載するものです。道内にある博物館、郷土歴史館、資料館などを回り、ミュージアムの特色を紹介しながら、ミュージアムの魅力やその存在する意味を問いかけます。
第6回は、旭川市の「北鎮記念館」です。ぜひご愛読ください。
(合田一道)
■第6回 「北鎮記念館」 ―館内に溢れる歴戦の史料―
北鎮記念館(旭川市)
旭川はかつて“軍都”と呼ばれ、北海道唯一の軍団、旧陸軍第七師団が置かれていた。現在は陸上自衛隊旭川駐屯地になっていて、この敷地内の旭川市春光町の国道40号線沿いに北鎮記念館が建っている。
記念館設立のきっかけは1962年(昭和37年)、日露戦争にコサック騎兵が用いた軍刀が寄付され、その折りに当時の自衛隊第二師団長が「いまのうちに北方防衛の資料を集めなければ散逸してしまう」と提案したことによる。
以来、旧陸軍関係者や遺族たちから資料を集め、64年(昭和39年)、現在地より内側に開館した。だが、場所的にもあまり目立たず、当初は年間3千人ほどに過ぎなかった。しかし2007年(平成19年)に、国道沿いの現在地に移設されて、一般の人も足が運びやすくなり、年間2万人に達するほどになった。団体客が増える一方、近年は軍関係者だけでなく、歴史愛好家の姿も多いという。
記念館に入ると、1階の中央部にパネル「第七師団縦覧」が掲示されていて、ひと目でその足跡を知ることができる。旧陸軍第七師団の歴史資料のほか、自衛隊第二師団の活動に関するもの、さらには「第七師団ゆかりの文学」図書など約2500点の資料が陳列されている。
中でももっとも重要な資料が「旧陸軍第七師団歴史」4冊だ。開拓使が設置されて屯田兵が置かれ、1904年(明治37年)、日露戦争の勃発により、屯田兵は第七師団に組み込まれて戦線に赴いた。それ以降、1945年(昭和20年)の終戦までの、師団の行動や人事が克明に記録されており、「機密文書」とされていたものだ。
頁をめくると、日露戦争時の記録が見える。旅順の総攻撃の要となった二〇三高地の攻略は、難攻不落といわれ、多くの犠牲者を出した。作家、司馬遼太郎は『坂の上の雲』の中で、陸軍大将乃木稀典に、こう言わせている。
「こんどは第七師団の全力をあげて二〇三高地にかからせる」
乃木がどれほど第七師団に期待をかけていたかが伺える。「第七師団歴史」の明治37年6月5日の項には、その攻撃の模様が克明に記されている。
二〇三高地の戦いは日本陸軍の華と謳われ、世界戦史上、稀に見る戦例として後世に伝えられた。そばにピアノが一台、置いてあった。作家五木寛之の小説『ステッセルのピアノ』で知られるロシア将軍ステッセルの妻、ウエラ夫人愛用のもので、凱旋時に持ち帰り、北鎮小学校に寄贈したものを展示しているのだという。
太平洋戦争でも第七師団は多くの部隊を最前線に送り込んだ。ノモンハン、ガダルカナル、アッツ島の戦い…。どれも激しい戦闘で、アッツ島の最期は全滅だった。
ところで、「第七師団歴史」は、実は焼却される運命にあった。だが命令を受けた第七師団司令部副官部書記の黒川幸雄曹長は、師団司令部が帯広に移った時、油紙に包んで密かに土中に埋めた。終戦後、書類を掘り起こして芦別の自宅に持ち帰り、17年後の1962年(昭和37年)の終戦記念日に、北鎮記念館に寄贈した。“奇跡の記録”といえる。
2階には北海道開拓に先駆的役割を果たした「開拓と屯田兵」や「第七師団の創設」、「第七師団と日露戦争・大東亜戦争」などのコーナーがある。屯田兵の生活ぶりを示す資料が並び、“屯田兵育ての親”といわれた永山武四郎の胸像が目につく。
郷土の英雄と讃えられた「加藤隼戦闘隊長」のコーナーに立つ。加藤は屯田兵の家に生まれ、航空隊に入り、隼戦闘隊長として数々の武勲を立て、戦死後、軍神として祭られた。「加藤隼戦闘隊」の表題でも映画になり、「エンジンの音轟轟と…」と歌われた。
北鎮記念館の南和宏館長は「旭川と旧第七師団の関わりは、旭川の歴史を語る上で避けて通られない。経済的にも文化的にも大きな影響を受けた。見学されて自分なりの考えを持って頂けたらありがたい」と語っている。
北鎮記念館の内部。戦歴を伝える資料が溢れている
利用案内
所 在 地:旭川市春光町国有無番地 陸上自衛隊旭川駐屯地隣 TEL:0166-51-6111
開館日時:午前9時から午後5時まで
休 館 日:毎週月曜日(月曜日が祝日の場合は翌日)
入 場 料:無料
駐 車 場:有り 普通車25台分 大型バス3台
交通機関:JR旭川駅より旭川電気軌道バス・道北バスで約15分
周辺のおすすめスポット
旭川のスタルヒン球場
旭川市花咲町2丁目。北鎮記念館の斜め前にある。1932年に設置された市営球場で、名投手スタルヒンが育った地域というので、球場名を冠した。球場正面にスタルヒン投手の銅像が立つ。
文・写真 山村 英治