アベノミクスによる黒田日銀の金融緩和で資産バブルが起き始めている。東京は既に億ションが立ち並びかつてのバブルの入り口に似た状況とされ、ここ札幌も資産価格が上昇し始めており怪しげな足音が聞こえ始めた。バブル崩壊の影響を地域として最も大きく受けたのは札幌、北海道だ。拓銀破綻がその象徴と言える。当時のバブル期と似たような状況に警鐘を鳴らす意味でも失敗の教訓を生かさなければならない。バブル期に日銀札幌支店長として過ごし、バブルの余韻が残る1993年に北洋銀行副頭取に就任、その後拓銀破綻を当事者として体験した後、頭取、会長を経験した高向巖札幌商工会議所会頭(76)はまさにその生き証人でもある。高向会頭が2月下旬に札幌東ロータリークラブで『バブル時代の証人として』と題して講演した内容を2回に分けて本サイトで紹介する。折も折、新入社員にとっても当時の状況を知ることは決して無駄ではない。拓銀破綻から17年と5ヵ月――いまさらではなく、いまだからこそ心にとどめおかねばならない中身がある。(写真は、高向巖会頭)
私はバブルの上り坂の局面だった1987年から89年まで日銀札幌支店長として札幌に勤務しました。日本全体でもそうでしたが、札幌でも大変な好景気で誰もが浮かれているような状態でした。
札幌でも地上げが日常的に行われ、ビルの建設ラッシュが続き、郊外ではゴルフ場やリゾート施設の建設が相次いでいました。夜のマチ、ススキノも大変な賑わいで高級料亭や高級クラブ、キャバレー、小料理屋、スナックなどどこも繁盛していました。マハラジャというディスコもプレイボーイクラブというバニーガールのいるクラブも同様に賑わっていました。
夏はウィークデーゴルフが盛んで、午前中にゴルフをして午後から仕事をするという人たちも大勢いたのです。冬は冬でスキー場のゲレンデは老若男女で埋まりました。株価は上昇、日高の競走馬もセリの値上りが止まらず、貴金属やブランド商品も飛ぶように売れました。高級車も“シーマ現象”という言葉が出たくらい売れに売れたのです。
白状しますと、銀行員であった私も夜の宴席用に小唄を習ったり、休日は露天風呂巡りをしたりして過ごしていました。誰もが懐が豊かになったように感じて湯水の如くおカネを使っていました。中でも、建設業、不動産業、ノンバンクはバブル3業種と呼ばれことのほか羽振りが良かったのです。
そもそもバブルは1985年9月、アメリカから迫られて他の国が通貨の切り上げと金利の引き下げに応じたことから始まりました。世に言う“プラザ合意”です。当時の日本は、基本的に国際協調路線であったため、為替円高を甘受する一方、金利の引き下げに唯々諾々と応じました。その結果、景気が悪化するのではと心配し、財政政策も公共工事の大盤振る舞いで景気を刺激、リゾート法も施行されてバブルを煽る状況になりました。
日経平均株価は、プラザ合意の時には1万3000円だったものが、1989年12月のピーク時には3万9000円に達しました。しかし、経済の過熱状況や公定歩合の引き上げ、不動産融資規制などを眺めて心配になった人たちが市場から逃げ始めたのです。株価は下落に転じました。1990年10月には一番底の2万円をつけました。それでもまだ景気の余熱はありました。この時に至ってもビルやゴルフ場、リゾート施設の建設は継続されとどまることをしらないような暴走状態でした。
1991年に入ると、さすがに景気ははきっきりと下降局面に入ります。多くの人たちに認識されるようになったのです。カネ繰りがきつくなって不動産が動かなくなりました。熱狂が終わりに近づいたことをみんなが悟るようになったのです。株価は下がり続け、1992年8月には二番底の1万4000円をつけてようやく下げ止まりました。俗に“半値八掛けに割引”と言われる状況があちこちで起こり、ほぼプラザ合意の時の水準に戻ったのです。こうしてバブルは崩壊しました。
大きな損失を被ったのは、高値の時に不動産投資をした企業や人たちです。特に銀行借り入れで不動産に投資した企業や人々は返済不能に陥ってしまいました。倒産が相次ぎ銀行の損失は拡大、信用不安へと繋がっていきました。
私は、バブルの下り坂の局面には東京に戻ったので札幌の状況がどうだったのかについて詳しくは知りません。しかし、その後1993年に北洋銀行副頭取として札幌に戻りました。当時の札幌は正直、まるで廃墟のようだと率直に感じました。
バブルの時代には拓銀も相当のプロジェクトに融資を行っていました。後に役員が民事上、刑事上の責任を問われるような案件が少なくなかったのです。カブトデコム、エスコリース、栄木不動産、ミヤシタ、ソフィアグループの5件については、鈴木、山内、河谷の各頭取以下取締役13人に対して101億円の損害賠償を求める最高裁判断が出ました。また、ソフィアグループについては山内、河谷両頭取に対して商法上の特別背任の罪で懲役2年半の実刑判決も出ました。もちろん、このほかにも不良化した巨額の融資や灰色債権も数多くありました。拓銀は償却負担に耐え切れず債務超過に陥り、直接的には資金ショートで1997年11月に破綻してしまいました。(以下、続く)