帯広市川西農業協同組合の有塚利宣組合長(86)が、『選ばれる産地づくりへ 十勝の取り組み~ブランド力向上と輸出を含めた販路拡大の事例~』をテーマに札幌市中央区のニューオータニイン札幌2階鶴の間で講演した。札幌商工会議所食品・貿易部会農産品分科会の主催で、約300人が参加した。IMG_8179(写真は、25日に開催された講演会で話す有塚利宣氏)

 有塚氏は最初に十勝農業の歴史に触れ、1883年に静岡県の依田勉三を中心とする「晩成社」が帯広に、1897年に福島県の二宮尊親を中心とする「興複社」が豊頃に入植するなど、屯田兵ではなく民間団体の集団入植で開拓が進められ、アイヌ民族の知恵によって自給自足の開拓生活が支えられた歴史を強調した。

 戦後の自作農創設と農協誕生とともに1962年ころ、十勝地域はコメに見切りをつけ畑作4品の寒冷に強い農業を作っていく方向に舵を切った。「5700haあった水田を畑作に変えた。また十勝北部は酪農専業としてその受け皿としてよつ葉乳業ができた」と語った。

 有塚氏は「十勝農業が発達した理由のひとつは国の基盤整備事業があったから。離農跡地を使って規模拡大するには馬の力では限界があった。大型機械の導入が不可欠で、そのためには暗渠排水、明渠排水で農地の水を抜く必要があったからだ」と話した。

 1980年代の土光臨調のころには予算削減の憂き目にもあったが、当時の地元選出中川一郎衆議と全農会長で士幌農協組合長だったホクレン中興の祖、太田寛一氏が土光敏夫氏を十勝に招き実際に暗渠排水事業を視察してもらい、重要性を理解させたという。水を抜くことが重要だったが、水が足りなくなっている現状についても言及。「2006年には南十勝でん粉工場で毎年使っていた札内川の伏流水が枯渇する事態があった。水不足は世界の人口増を背景にますます大きな問題になる。今後は山に降った雨を溜めておかなければならないかもしれない。道開発局とはGPSで山の高低を測り、溜め池を作ることも検討している」と有塚氏は訴えた。

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