IMG_1720コンサドーレ札幌で2001年から09年11月まで9年間現役だった曽田雄志氏(36)が、元Jリーガーとして第2の人生を自力で切り開こうとしている。プロスポーツ選手として体得してきた生き方の哲学を根幹に据え、スポーツを通じたコミュニティづくり、教育に活路を見出そうとする地道な取り組みだ。もちろんビジネスの視点も忘れてはいない。一流のサッカー選手が引退後も一流になれるかどうか、曽田氏がスタートさせた第2の人生は人間力そのものが試されることになる。曽田氏が4月23日にSATOグループオープンセミナーで講演した内容を3回シリーズで紹介する2回目は、コンサドーレ時代の軌跡を振り返る。(写真 は、講演する曽田氏)

  
 曽田氏は筑波大4年生の2月1日にコンサドーレ札幌とプロ契約、3月の卒業後から9年間プレーすることになる。プロになって良かったと思うことが多いと曽田氏。学んだことも多かったという。
 曽田氏は9年間で自分に3つのマイ・ルールを決めた。最初に決めたのは、『自分に期待しない』というルールだった。身体能力が高くてヘッディングにも強い曽田氏、当時の岡田監督から『お前は長くサッカー選手を続けられると思うよ』と声を掛けられたことも嬉しかったという。当然、すぐにベンチ入りできると思っていた。

  
 ところが、いつまで経ってもメンバーに選ばれない。次は選ばれるだろうと思っても選ばれない。4ヵ月ほどそうやって時間が過ぎて行った。そんな時、ふと頭をよぎった思いがあった。「自分は大学時代とどれくらい実力が上がったのか」――そう考えると寂しくなったという。あまり上達していないことが自分でも分かったからだ。「そうか、自分はメンバーに選ばれること、目の前のことだけを考えていたから駄目だったんだ」と。そこから考えを改める。「メンバーに選ばれることが大事なのではなく、確実にうまくなっていく方が大事なのではないか」。必要なことを決めて実行していくことを決めた。そのうえでクビになっても仕方がないと割り切った。
 その2ヵ月後、曽田氏は16人のメンバーに選ばれ初のベンチ入りを果たした。名古屋グランパス戦の後半延長戦に出場。試合に出た後、謙虚に振り返ることができた。「自分に過剰に期待しないルールを決めたことが良かったんだ」と曽田氏は実感した。
  

 2つ目のルールは、人に応援されることの責任を自覚したことだ。曽田氏は、最初の4年間くらいは「応援など頼んだことはないのに」という思いがあってミスしてはファンから怒られることに違和感を抱き続けていた。しかしチームが勝つとファンはニコニコして労いのことばを掛けてくれビールをいつもより多く飲んでいる。そこで思ったのが、彼らの人生に我々は入り込んでいること、その責任は重大だということだった。それからはトレーニングに一層励むようになった。「人の気持ちを預かること、それに応えることを学んだことは大きかった」(曽田氏)
  

 もうひとつのルールは、今自分にできることをやるということだった。曽田氏は2007年当時のチームで在籍期間は一番長く、給料も一番高かった。しかし、膝が曲がらなくなったり半月板の損傷、ヘルニアなど手術が必要になっていた。J1昇格のシーズンが始まったが、キャンプも十分にできなかった。翌年になって手術をして車椅子と松葉杖で3ヵ月間過ごした。選手会長だったが、やることと言えば練習場の風呂に入ってマッサージをしてもらうことくらい。「スーパー銭湯の状態が続いた」(曽田氏)。高い給料をもらっているのにと思い惨めになったという。自分は、なぜここにいるのかと自問自答する毎日。そこでまた曽田氏は自分なりのルールを決めることになる。「気づいたことは全部やる」というルールだった。悩んでいる後輩をご飯に連れて行くことや落ちているゴミを拾うこと、トイレを綺麗にすること――1年間続けた。リバビリをしても復帰できる要素は少ないが自分にできることは何でもやろうと決めて過ごした1年間だった。

 
 引退の文字が頭の中にあった09年秋口にチームのGMから「辞める気があるならシーズンが終わる前に言って欲しい」と言われる。最終戦でベンチに入ってもらいたいからだと。自分の考えを決めかねていたが、最終戦は子供の誕生日でもある。そんなことを考えながら練習場で夕方、1人でランニングしていたらナイター照明がパッと点いて緑の芝が綺麗に見えた。その瞬間、曽田氏は辞める決意をした。
  

 決めてからは痛み止めの注射をしながらランニングを1日1時間、5日間だけやったうえで最終戦に臨んだ。与えられた時間は3分間。スタジオには3万人近くの観客。自分の名前を呼ぶ声が聞こえる。「重たいな」というのが正直な感想だったという。
 後半、ピッチに入ったが3分間しかない。運よくボールがきてPKを貰う。1回目は止められたが、やり直しでPKを決めた。結果は出来過ぎだった。しかし、「自分の出来ることをするというルールを決めて実践してきたことは次に繋がることが分かった」と曽田氏は確信することになる。
(次回は曽田氏の引退後から現在までを紹介する)

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