北海道流通界の一時代を築いたポスフール元社長の大川祐一氏(84)が、入院先の札幌市内の病院で21日死去、24日に札幌市中央区の博善斎場で告別式が行われた。生前に縁のある人たちが参列、最期の別れを惜しんだ。IMG_0683(写真は、24日行われた大川氏の葬儀)

 大川氏は、1933年8月旭川市生まれ。52年旭川西高を卒業し、東北大学を受験するが不合格となり、大学進学をあきらめ地元の繊維問屋に就職した。67年、32歳の時に、余市町で繊維小売を始め、71年に衣料百貨店の「ヤマダイ」を設立して社長に就任した。

 折しも高度成長期で衣料需要も大きく伸びていった時代、80年にはヤマダイを含む衣料系4社が合併して「ホクホー」が設立され、大川氏は副社長に就く。翌81年11月に社長に昇格して以降は、持ち前の負けん気と嗅覚で流通変革期に臨み、92年3月にニチイの地域子会社だった北海道ニチイとホクホーが合併して北海道ニチイが誕生、大川氏は代表取締役副社長に就き、94年には社長に昇格した。
 
 96年7月に親会社のニチイが社名をマイカルに変更したため、北海道ニチイもマイカル北海道に社名を変更、9月に株式を店頭登録、98年11月に東京証券取引所2部、札幌証券取引所本則市場に上場、2000年2月に東証1部になった。
 
 71年にヤマダイを設立して以降、30年間は大川氏の攻めの強さが現れた時期だったが、東証1部上場の翌年、01年に親会社マイカルが経営破綻。以降は、大川氏の守りの強さが発揮される。親会社が60%の株を握る子会社だったマイカル北海道は、連鎖倒産必至と見られたが、大川氏は素早く自社株を買い集めるとともに取引先に安定株主を依頼するなどして自主独立路線を固め、02年に社名をポスフールに変更した。

 イオンからの提携打診を拒否する姿勢を見せ続けたが、03年にはイオンが出資比率を高めて資本業務提携、07年にはさらに出資比率が高まって過半数を握ることになり、社名もイオン北海道に変更、現在に至っている。01年ころには、一時、ラルズと持ち株会社を作ることで検討が進み、当時ラルズ社長だった横山清氏と大川氏はトップ会談を重ねたこともあった。

 大川氏の後半生は、守りに徹したものだったがイオンへの経営移譲を進めるために、大川氏自身が捨て石になったようだ。06年には、新千歳空港で手荷物に関して空港職員とトラブルを起こしたことをきっかけに事実上表舞台から退いた。

 葬儀会場には、イオングループ各社や道内流通各社、金融機関などの供花が多く並び、大川氏が残した足跡が大河を形作ることになり、まさに時代の風雲児だったことを偲ばせた。
 


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