コープさっぽろの元理事長、河村征治さんが1月10日、76歳で死去した。心臓病や脳梗塞を患いながらも異業種交流組織、テーミスクラブでは設立以来事務局長として会員交流に汗を流すなど、一病息災ならぬ多病息災ぶりを見せていた。昨年秋口に道路で転倒して足などを骨折、入院してリハビリに励んでいたが、入院中に不幸にもベッドから落ち左急性硬膜下血腫のため中村記念病院で死去した。P1080767(写真は、河村理事長時代の1994年12月にオープンしたNOVA倶知安=『コープさっぽろ30年の歩み』から)

  
 河村さんは、中国大連出身で戦後函館に引き揚げ、函館中部高を経て現役で北大に入った。大学時代から北大生協に関わり卒業後は北大生協の常務理事に就き、1965年の札幌市民生協(現コープさっぽろ)設立に加わった。
 札幌市民生協の初代理事長は高倉新一郎北大教授で初代常務理事には北大生協専務理事だった真鍋康弘氏(後に初代専務理事)、河村さんは常勤理事に就いた。実質トップだった真鍋氏の多店舗出店で負債が膨らみ、75年に真鍋氏は引責辞任。代わって河村さんが専務理事に就き、札幌と旭川、函館の3単協合併などを経て90年にはプロパーとして初の理事長に就任した。
 バブル期に突入してからも河村さんは大型店を相次いで出店してきたが、96年に組合と経営路線を巡って対立。理事らの多くも同調して事実上のクーデターによって解任された。その後は、広告代理店、パブリックセンター子会社のCWEに入り、数年後にはトップに就いたが、やがてパブリックセンターが破綻。CWEの清算人として清算業務を全うした。
 
 当時すでに河村さんは、異業種交流のテーミスクラブを設立、またCWEの活動の一環として札幌旅っ人クラブ、森林ボランティア協会などの事務局活動も行っており、これらの事務局を一時、札幌狸小路の金市舘ビル(ラルズプラザ札幌)8階に置いていたこともある。現在は、ラルズの旧本社ビル(豊平区平岸1条1丁目)内に事務局は入居している。
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 本日から河村さんを偲んで、ゆかりのある人たちに思い出や人となりについて語って貰う。初回は、アークス横山清社長(80)。河村さんが北大恵迪寮で出会った横山社長とは半世紀以上に亘って親交があった。コープさっぽろは、アークスの前々身である大丸スーパーの時代からライバル関係にあったが、流通業に身を置く者同士、付かず離れず適当な距離を置きながらも心を通い合わせた間柄だった。IMG_0720
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 河村君は、私より年齢は3つ下だが、私は芦別高校を出て炭鉱(明治鉱業)で2年間働いてから進学したので学年は1つ違うだけだ。彼と初めて会ったのは、私が恵迪寮の寮務執行委員長をしていた時だった。新入寮生の選考委員長を兼ねていたのだが、彼が入寮希望ということで面接したのが最初だった。『もはや戦後ではない』と言われた時代だったが、学生にとっては食べるのも大変な時期で、寮費の安かった恵迪寮は競争率3倍でなかなか入るのが難しかった。河村君は大変ハンサムな男で、女の子にはモテモテだろうというのが第一印象だった。
 
 結果、河村君は補欠の順番待ちになったのだが、寮に入るつもりで札幌に来たため下宿は探していなかったようで、恵迪寮に入った友人のベッドでこっそり寝るような生活を1ヵ月くらい続けたようだ。
 ある日、私が寮のトイレに入ると河村君が先に用を足していた。すると、「委員長(彼は50代半ばまで私のことを寮務執行委員長、略して委員長と呼んでいた)、いつになったら入寮を許可してくれるんですか」と言ってきた。私は「まあ待て。そのうち空きができるから」と答えたことを覚えている。
 それからすぐに1年生の1人が寮に馴染めず出て行ったので、河村君は無事恵迪寮に入ることができた。
 
 彼は卒業の時、どこかの商社に就職が決まっていたようだが、「大学生協を背負って立つのはあなただ」と説得されたようで、結局大学生協に残った。それから大学生協が背景になって真鍋康弘氏や河村君らが理事になってコープさっぽろの前身、札幌市民生協を立ち上げた。初代専務理事の真鍋氏は、店をどんどん出していったものだから立ち行かなくなり、代わって河村君が専務理事に就き、ある程度組織が固まってから理事長になった。
 
 私は卒業して野原産業に入ったが、何か理由を付けては恵迪寮の仲間たちと集まって飲んでいたが、河村君もその中の1人だった。そのうち私も大丸スーパーに出向して同業になった。コープさっぽろはどんどん大きくなり、全盛期は大変な勢いだった。当時、河村君を北海道知事に立てようと本気で思っていた連中がかなりいたようだ。あのころだったら当選したかもしれないほどの勢いだった。
 
 こんなエビソードもある。私が大丸スーパー専務として新しい店を出そうとしても中山大五郎社長は、商工会議所の副会頭や日専連札幌会理事長、スーパーの出店調整をする商調協(商業活動調整協議会)の委員長だったので「出店は罷りならん」という姿勢。
 札専の理事長室で食品スーパーを「出す」、「出すな」とガンガンやり合ったことがある。それが漏れて河村君があるストーリーを立てた。これは後日談として彼から直接聞いたのだが、「委員長(横山さん)は、ああ見えても気性が激しいから中山社長と喧嘩して辞めるはず。辞めるとしたらどこかに行く。生協に来てもらうのが一番良い」と触れ回ったらしい。
その話が、中山社長にも伝わって、「本当に辞めるのか」と問われた。私は「一体何の話ですか」とキョトンとするしかなかった。
 
 30年ほど前に、GMS(総合スーパー)の長崎屋が最初に道内進出して、その後はダイエー、西友、ヨーカ堂と次々に進出してきた。北海道の小売業ベスト10で百貨店以外は殆どこうしたGMSで、コープさっぽろがようやく8位か9位に顔を出すくらい。他のスーパーは全然入っていないから、河村君もあのころは少し天狗になっていて、『河村天皇』と言われるようになっていた。それがたたって経営の路線対立と組合からの反目で退任せざるを得なかったのだろう。
 
 いずれにしても、今のコープさっぽろの基を築いたのは河村君だと思う。リーダーシップもカリスマ性もあった男だ。能力的にも高いスキルを持っていた。
 コープさっぽろと我々は同業と言うことで対立関係にあったが、コープさっぽろは渥美俊一さんが主宰したチェーンストアの研究団体、ペガサスクラブのコンテストでは当時必ず上位を占めるなど、その力量には一目置かざるを得なかった。
 
 96年に理事長を解任されて以降、心臓で何回か倒れ、軽い脳梗塞にも罹って身体は少し不自由になっていたが、しっかりと物事について書くし、本も読んでいた。彼は、「本当だったら生活協同組合ではなく、株式会社でやりたかった」と言っていた。左翼系の人脈の中でのオペレーションはなかなか難しかったのだろう。
 享年76歳はそれほど若くもないが、優れた素質をもった人物だったので、晩年をああいう形ではなく全うして欲しかったのが正直な気持ちだ。非常に残念だ。(談)
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