札幌商工会議所と北海道商工会議所連合会の主催による「北海道経営未来塾公開講座」の第4回が15日、札幌市中央区のホテルモントレエーデルホフ札幌13階ベルヴェデーレで開催された。今回の講演は、ドトールコーヒー名誉会長の鳥羽(とりば)博道氏(79)。鳥羽氏は『私が歩んできた道』をテーマに約90分間話した。企業や行政関係者のほか北海道経営未来塾の2期生を含めた約300人が熱心に聴講した。IMG_8087(写真は、講演する鳥羽博道・ドトールコーヒー名誉会長)

 埼玉県深谷市出身の鳥羽氏は、1954年、深谷商業高校を3ヵ月で中退する。中退の原因は実父との口論だった。明治生まれの父親は、東京芸大を出て肖像画家の道を歩んだが、写真の台頭で失職。ガラス玉で五月人形の目を作る仕事をしていたが、画家の道を諦めたことで荒れた生活を繰り返していた。納入先からお金が入るとその日に使ってしまい家には一銭も入れない。 

 高校に入学した鳥羽氏は、ある日父親の代わりに納入先からお金を受け取って帰ってくると、突然父親が「お前のような腰抜けに何が分かるか」と怒鳴ってきた。鳥羽氏は即座にこう切り返した――「自分だって腰抜けじゃないか」。その言葉に逆上した父親は家にあった日本刀を抜き、血相を変えて斬りつけてきた。

 その勢いに気押されたことと父親に暴言を浴びせたことを悔いる気持ちがないまぜになり、15㎞の夜道を裸足で歩き父親の実家に身を寄せた。「もう家には戻れない」。鳥羽氏はそう思ったという。
 翌日、家出同然で東京の親戚を頼ることにした。埼玉から東京に向かう電車の中で、鳥羽氏は高校を中退せざるを得なくなったことを反芻し、その時、「同級生たちは高校を卒業して大学に進学するだろう。でも私は彼らには絶対負けないぞ」と思ったという。
 鳥羽氏は、「強気と負けず嫌いは違う。強気は言葉や態度に出るが、負けず嫌いは心の中に秘めたもの。高校中退の時に『同級生たちには負けたくない』と思ったが、その後の人生を振り返ると、商売には負けず嫌いという気質が欠かせないものであることが分かった」と話した。深谷を逃げるようにして出た鳥羽氏だが父親を恨む気持ちはなく、むしろ目指した道に進めなかったことに同情する気持ちが強かったという。

 東京に出た鳥羽氏は、新宿でレストランの皿洗いやバーテンダーをして過ごしていたが、18歳の時に喫茶店で働くことになった。そしてその店にコーヒー豆を納品していた鈴木コーヒーの社長と知り合う。2人はコーヒー牛乳を考え出して明治乳業に売り込む。それが見事当たって鈴木コーヒーはコーヒー牛乳用の豆を明治乳業に大量納品することに。社長のたっての願いで鳥羽氏はその会社に転職、コーヒー豆の販売をすることになった。

 ところが、コーヒーについての知識がない中で、いきなりセールスをすることに鳥羽氏は戸惑う。根っからの内向的性格で人と話すと赤くなる性分。「当時、何気なく『苦しくても前に進むことは生、逃げるのは死』と思っていたので必死でセールスした。どうすればあまり喋らなくても売れるかを考えたら、相手のためになることを提案することだと気づいた。そうこうしていたら1年間でトップの営業成績になった」(鳥羽氏)

 19歳の時、鈴木コーヒーは西銀座のデパートに直営店を出すことになり、鳥羽氏は店長を任される。凝り性だった鳥羽氏は、喫茶店はそもそもなぜ必要なのかを深く考えた。辿り着いたのが「都会の人は心身ともに疲れている。喫茶店の使命は、お客に安らぎと活力を提供すること」。丸善書店で色彩心理学の本を読み、安らぎを与えるクリーム色、活力を示す赤色に近い茶褐色で店内を装飾、壁材には麦わらを使用して郷愁を誘うようにした。スタッフの女性5人には、当時テレビで流行っていたアメリカのドラマ『ベン・ケーシー』に似せたスタイルの衣装を着せ、サイフォンでコーヒーを提供する店にした。

 その店は大当たりして連日満員だったが、鳥羽氏はそれとは正反対に焦燥の日々を送っていたという。「こんな小さな店の店長で終わってしまうのか」――そんな中、会社の先輩でブラジルに渡っていた人から一通の手紙が届いた。『ブラジルに来ないか』と書かれている。42日間の船旅、一度渡航すると二度と帰ってくることはできないかもしれない。迷った末に鳥羽氏は決断する。内向的な性格を変えるためにもサンバの国に行こうと。高校中退のハンデを海外に行くことで克服したい思いもあった。さらに自分の価値を見定めたいという気持ちも強かったからだ。(続く)


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