日本興業グループの創業者で会長を務めていた小林博明氏(84)の告別式が23日、札幌市中央区の中央霊堂で行われた。小林氏は札幌・新琴似に入植した屯田兵3代目だが、都市化が進んだ昭和30年代から宅地造成をベースに実業界に進出、一時は海外を含めて年商1300億円の企業グループを率いていたこともあった。バブル後はグループの整理統合を進め、ようやく次代に引き継ぐ体制を整えた矢先の今月20日、3度目の心筋梗塞で死去した。(小林氏の告別式で参列者に挨拶する道見氏=左)
 
 小林氏のルーツは670年続いた小倉藩藩士。明治の廃藩置県で祖父が北海道開拓のために屯田兵に応募し、明治20年、船で福岡から小樽に入り琴似から新琴似に入植した。小林氏は昭和2年に新琴似で生まれている。
 
 円山尋常小学校から札幌工業に入学したが、途中から旧制北海中に移り昭和22年に卒業。
 小林氏は札工時代のこんなエピソードも語っていた。
 
《札工は、旋盤工場や鉄を溶かして鋳型を作る工場を持っていたが、ある時、旋盤にやすりを投げた学生がいた。その現場に配属将校2人がいた『やったのは誰だ』と。誰かが名乗らなければその場が収まらない。仕方がないから『私がやった』と手を上げた。後でその配属将校から『小林、よく手を上げてくれたな』と。その言葉で一度に涙が出て言葉にならなかった》
 
《狸小路の岩崎無線で部品を買って自宅で無線をやったこともある。それで当時の電波監理局につかまった。5―6人が我が家に取り締まりに来てその中には憲兵もいた。札工から『小林君は問題児だ。普通の人がやらないことをやる』と叱られた。そんなこともあって2年生の途中で札工を辞め、北海中の編入試験を受けることになったんだ》
 
 北海中の編入試験には、50人くらいが受験、小林氏は試験問題の半分しか解けなかったという。たたまたま北海中の校長が叔父で、その叔父が「小林は身体が弱いから」と内々に試験担当者に話しており、結果的に50人の中から合格者3人に選ばれ晴れて北海中の学生になったという。今で言う縁故入学だが、おおらかだった時代の空気感が伝わってくる。
 
 北海中を卒業後、大学進学を志していたが、屯田兵時代から続いている農業の跡継ぎが必要と両親に説得されて農業に従事することになった。
 
 大根と大麦を中心に作り、大麦はビール原料向け。大麦は春先に種を蒔いて7月ころから刈り取り、8月に大根の種を蒔く。耕地面積が新琴似で一番大きかったという。
小林氏は農業に精を出していたころをこう述懐していた。
 
《肥やしも畑で撒いたが、両肩にバランスを取って肥やしの入った桶を吊るから肩がもげるように痛かった。1週間目で爛れてひどく痛かったが10日くらいで馴れてくるんだ》
 
《10月ころに大根を朝収穫して市場で売ったり自分で売ったりしたが、大八車のよう4輪の台車に大根を1000本とか1500本も積んで売りに行く。10月ころになると、全部売れるとあたりは暗くなっていたね》
 
 やがて札幌でいち早くトラックを購入し、収穫した農作物をトラックの荷台に積み込んで運搬するようになったが、運転中に前輪がおかしくなって灌漑用の水路に突っ込む事故を起こしたこともある。
 
 篤農家として表彰されたことがある小林氏は、都市化の波が麻生・新琴似に現れ始めた昭和30年代後半から、地元の事情を知らない外部の業者が来て乱開発されるよりも地元のことをよく知っている事業者が造成をすべきだと主張し、自ら宅地造成の会社、「北王興業」を設立。
 
 同46年には日本興業を設立し、札幌の発展とともに宅地造成を進めていった。団地造成は150ヵ所、50万坪に及んだが、この記録は宅地開発の規模としては空前のもので現在も破られていない。
 
 当時、小林氏の周りにはオリンピア総業の高橋明治氏やホーム企画センターの青木雅典氏などもいたという。
 
 その後、北王興業、日本興業をベースに弱電機器のサンコー電機に経営参加したり、韓国、香港、シンガポールに現地法人も設立、弱電、観光・レジャー、ホテル、ビルなど国内外で事業を展開しバブル期にはグループ38社、年商は1300億円まで膨らんだ。
田中角栄、中曽根康弘、小佐野賢治などとも親交を持った。
 
 しかし、その後のバブル崩壊により大きな損失を被り、事業は縮小を続けここ10年は経営効率化を進めて次の世代にバトンを渡す体制づくりに取り組んでいた。傘下企業を8社に絞り込み、最終的に「日本興業」「日本小林興業」「北王興業」「中央都市開発」の4社体制にして効率経営にメドをつけた。
 
 小林氏は、50歳で脳梗塞、60歳で心筋梗塞、4年前にも2回目の心筋梗塞を起こしていたが、その後も奇跡的に体調を回復、ルーツの福岡県を訪ねるなどしていた。
 
 小林氏は生涯に亘って屯田兵の誇りを失わず、北海道屯田倶楽部の設立に力を入れ、2代目の会長にも就任。屯田兵の歴史や調査研究、施設の保存にも取り組み、歴史書も私費で出版。関係者に寄贈するなど、社会貢献も欠かさなかった。
 
 葬儀委員長の道見重信氏(道議会議員)は、「小林さんは、なすべきことは全て果たしたうえで亡くなった。唯一の心残りは、楽しみにしていた88歳の米寿まで生きられなかったことだろう」と惜しんでいた。


5人の方がこの記事に「いいんでない!」と言っています。